過去をあらわす「し」
中原中也の詩「含羞(はじらい)―在りし日の歌―」の一節を引きます。「その日 その幹の隙 睦みし瞳/姉らしき色 きみはありにし」。過ぎ去った日の思い出を詠(うた)った作です。「在りし日」をはじめ、随処に過去を表す「し」が用いられています。この詩を収録した詩集『在りし日の歌』に、中也は「亡き児文也の霊に捧ぐ」と記しました。中也の長男文也は2歳で亡くなりました。
室生犀星もまた、長男を1歳で亡くしました。悲しみを託した『忘春詩集』に収録した詩「忘春」にこんな一節があります。「いつの日に忘れしものならん/納戸の小暗きを掃きたりしに/三株ばかりの球根の種、/隅よりころがり出でて/もはや象牙のごとき芽を吹きけり」。ここでも過去を表す「し」が用いられています。
俳句で使う文語を体得するには、「百人一首」など和歌に親しむのもよい方法ですが、中也、犀星など近代の詩人の文語自由詩を読むことも有益です。
神木を伐りし祟りや神の留守 犀星
過去に神木を伐ったことがあった。それが原因で祟りがあった。その神も今は出雲に出かけて留守である。犀星15歳の作。少年時代の犀星の俳句の巧(うま)さには驚かされます(岸本尚毅編『室生犀星俳句集』岩波文庫)。
「し」は助動詞「き」の連体形です。「なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ/秋 風白き日の山かげなりき」(中原中也「含羞」)の「山かげなりき」は、山かげだったという意味です。
さて今回は、過去を表す「し」を用いた投稿を見ていきましょう。
バナナ食う芭蕉座りし石の上
田村翔平さん(秋田市)の作。俳聖芭蕉が一休みしたかもしれない石に自分も座って持参したバナナを食したのです。バナナがバショウ科であることに可笑(おか)しみがあります。「座りし」の「し」が、芭蕉の生きていた昔の事であることを表しています。
村嬢に習ひし蛇の掴み方
楊若枳さん(中国、22歳)の作。田舎の若い娘に蛇の掴み方を習ったというのは、過去のことです。
「過去」か「存続」か
地に這ひしわかみメロンの網目濃し
太田穣さん(男鹿市、56歳)の作。名産の若美メロン。地を這う蔓(つる)になったメロンの実の網目の模様が濃く、美味(おい)しそうに育っている。畑のメロンを描写した良い句ですが、畑の地面を這っているのが眼前の景であれば、過去を表す「這ひし」ではなく、別の言い方がよいでしょう。
地を這へるわかみメロンの網目濃し
「這へる(這える)」は「這ふ(う)」という動詞に助動詞「り」の連体形「る」がついた形。「り」は存続(ある状態の継続)を表す助動詞です。「這へる」は「這っている」という意味。
より具体的に描写する
無造作にスマホ置かれし古日記
清水健彦さん(秋田市、42歳)の作。「置かれし」ははるか昔ではなく、近い過去。つい今しがたスマホが置かれたのです。日記やスマホのある机上の様相をそのまま詠んだ句ですが、「無造作に」を、より具体的な描写にしたいところ。
その横にスマホ置かれし古日記
「その横」は、状況によっては「そのそば」「その上」でもよいでしょう。スマホを身辺に置いていても、日記に関しては手書きの日記帳を使い続けているのです。
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