転がるバレル(1)

(2021年11月4日 付)
作・村雲菜月(むらくも・なつき)
1994年北海道生まれ。金沢美術工芸大学視覚デザイン専攻卒。会社員。横浜市住。
絵・今井恒一(いまい・こういち)
1949年秋田市生まれ。秋田商高卒。秋田美術作家協会会員。同市住。

 ここは樽、酒樽のなか。お客さんは入ったり出たり、出たり入ったり、回転率もそこそこに今夜も回る。ぐるんぐるん。

 すでに高校を卒業して丸一年が過ぎている。彼女は古びた大学校舎の薄暗いエレベーターの中に貼り出されたバイトの求人情報をまじまじと見つめていた。このエレベーターには壁面を埋め尽くすかのようにサークルの勧誘だとかバイト募集の貼り紙が隙間なくベタベタと貼られ、それらは貼っては剥がされ貼っては剥がされを繰り返すのでテープの痕が層になってそこらじゅうが汚れている。しかしながらその汚れはかつて彼女と同じくこのエレベーターを使用してきた先人たちの青春の証そのものであり、彼女の知的好奇心をくすぐるには十分な材料であった。

 入学してからは一カ月が経とうとしており、彼女はこの頃バイトを探していた。昼間のお洒落なカフェのバイトはきっと性に合わないし、ファミレスやチェーンのファストフード店は味気ない、家庭教師なんて柄でもないし、日雇いバイトは体が疲れるだけで日給が相応しいとも思えない。その中で一枚、気になる貼り紙があった。「転がるバレル」という店名と勤務時間十八時~二十四時(要相談)、時給八百円と癖のある丸文字で書かれた求人チラシである。どうやら賄いも出るらしい。住所はこの土地にやたらと多い坂道を下った先、自宅からは自転車で十五分程度の片町という繁華街の近く。暇つぶしと小遣い稼ぎにはちょうど良い条件だった。電話をすると、すぐ面接するので今日来てくれと、電話の向こう側から言われた。彼女は生まれて初めて百円ショップで履歴書を買って、必要事項を書き入れて、身だしなみを軽く整えてから家を出た。

 約束は十七時半。少し早めに着いてしまったので店の周辺をうろうろすると、野良の黒猫が一匹道端をゆっくり歩いていた。彼女が「ニャア」と話しかけると黒猫はしばらく彼女を琥珀色の瞳でじっと見た後、すごい速さで通りを駆けて行った。柿木畠(かきのきばたけ)と呼ばれるこの一帯は名前の通りそこらじゅうに柿の木が並んでおり、狭い道に沿ってこぢんまりとした隠れ家みたいな蕎麦屋だとか和菓子屋だとか古本屋だとかが軒を連ねている。彼女の目的地は半地下になったカフェ&バーの真上、建物を正面から見て左の階段を上った先の二階にあった。

 彼女は急な階段を慎重に上り、凹凸ガラスのついた古びた木製のドアを開けると、カランと心地の良い鐘の音が鳴った。

 

 約束の時間ぴったりに扉を開けた彼女とバーカウンターの向こう側にいたマスターの目がピタリと合う。

「ごめんなさい。まだ開店時間じゃないんで…あ、もしかして電話くれた人?」

 マスターは明るい笑顔でそう言ったので、彼女は恐る恐る挨拶した。マスターの後ろにはずらりと色んな形のボトルが並んでいた。彼女は初めて見るバーカウンターに圧倒されて店内に入るのを躊躇(ためら)っていた。

「そんなところに立ってないで。さあさあ、どうぞ中に入って、そこに座って」

 マスターに言われるまま彼女は店内のコーナーに造り付けられたベンチの片側に軽く腰をかけた。白いバーコートを着たマスターは、彼女の父親と同じくらいの年齢のようだが、整った黒髪と姿勢の良さから若々しく見えた。

「初めまして、じゃあまず自己紹介をお願いします」

「あ、えっと」

 溌剌(はつらつ)とマスターが彼女に話しかけると、彼女は何から話せばいいか分からずに口をパクパクさせ、目を泳がせた。彼女は自己紹介が苦手だった。小学校より環境が変わるたびに避けては通れないその通過儀礼は、毎度のこと彼女を憂鬱(ゆううつ)にさせた。そもそも面接は初めてだから何から話せばいいのかも分からない。彼女の頭の中では言葉が溢れ出てくるのに、それが喉を震わせて音になることはなかった。黙ってしまった彼女の胸中を察してか、マスターはより簡単に会話が成り立つように舵を切った。

「そうだね、急に言われても困るよね。じゃあ、名前と年齢と大学の学部を教えてくれる? あと出身地も」

 彼女は自分の名前と十九歳だということ、美術大学のデザイン学部に一浪して入ったことを伝え、出身は北海道の真ん中より少し下あたりの市だと答えた。

「そうかそうか、じゃあ趣味は?」

 彼女は絵を描くことと、たまに読書をすることくらいだと答えた。

挿し絵

「俺も本を読むのは好きだよ、カウンターの脇に本がいくつか並んでいるでしょう? あの本はお客さんも自由に読めるようにしているんだ。あと観劇も好き。こう見えて実は昔、東京で役者を目指してたこともあるくらいにね。だけども何でか、いつの間にかこっちに戻ってきて、気付いたらバーテンダーになっていたんだよなあ」

 マスターの昔話を聞きながら、彼女は履歴書を書いてきていたことを思い出した。バイトの面接には履歴書が必要なのだと思っていたが、それは彼女の思い込みだったらしく、マスターは特に履歴書を要求しなかった。だが、慌ててトートバッグから無造作に少し折れた履歴書を取り出して差し出すと、マスターはその紙切れを眺め、しばらくしてから声を出して笑った。

「志望動機、いいね! なるほど、なるほど、きっとすぐに叶うよ。君、採用!」

 その面接は拍子抜けなくらいあっさりと終わった。マスターはアルバイトの経験を彼女に聞き、彼女は飲食や接客業の経験がまるでないという話をすると、接客の基本は「笑顔」と「挨拶」だと教えられた。

「まずは、『いらっしゃいませ』を笑顔で元気な声で言えるようになること。続けて練習しようか。いらっしゃいませ!」

「ぃらっしゃいませ…?」

「もっと大きな声で! いらっしゃいませ!」

「いらっひゃいませ!」

「顔引きつってるよー。笑顔、笑顔。いらっしゃいませ!」

「いらっしゃいませぇ!」

 彼女は口角を今までの人生で最大限に上げて、何度も何度も演劇の発声練習のように「いらっしゃいませ」を繰り返した。何度繰り返しても彼女の声よりマスターの声の方が五割増しに大きくハリがあったが、どうやらギリギリ合格のラインを越えたらしくその発声練習は終わり、マスターは彼女に仕事の内容を教えるのを兼ねて今から早速働いていかないかと言う。

 この店には以前まで、バーテンダーがもう一人いたという。二人体制で稼働していたのだが、もう一人がこの春に独立して店を辞め、現在はマスターが一人で回しているらしい。カウンターが十席に三、四人用のテーブルが二つというこぢんまりとしたバーだが一人で回すことは大変で、マスターは一刻も早くバイトを雇いたいようだった。

 彼女の仕事は主に洗い物と空きテーブルの片付け、マスターが作ったお酒や料理の配膳、終業後に店内を清掃することだった。それ以外の時間はバーカウンターの奥にずらりと並べられた様々な形のボトルやグラスを磨いて並べ直したりすること。それからカウンター下の冷蔵庫内にあるウィルキンソンの瓶入り炭酸水がなくなる前に、建物の正面に突き出したベランダから在庫を持ってくること。転がるバレルはハイボールを専門に出すバーで、少女はその存在をCMなどで見聞きして知ってはいたが、このバーにはCMでよく見た角瓶は見当たらなかった。もしあったとしても数十種類もの瓶が棚には並んでおり、それが全てウイスキーだというのだから、その中から指定された一本を見つけ出すのは彼女にとって非常に厄介な作業だろう。

 一通りの説明を終えると、マスターは店内の隅に置かれた木製のクローゼット兼用具入れからクリーニングの袋を被ったままの衣服を取り出した。それは真っ白な割烹着(かっぽうぎ)だった。マスターは「これ、君の制服ね」と言った。何故バーに割烹着なのかと彼女は首を傾げたが、その割烹着はもう何年も前からこの場所にあったみたいに馴染んで見えるのだった。

 言われるままに割烹着を着た彼女は、真っ黒な墨で「転がるバレル」という店名が縦書きされた二つ折りの木製の立て看板を抱えるように持ち上げて階段を下りる。入り口の前に看板を置いて店に戻ると、きっかり十八時に店のドアが開き鐘がカラン、と鳴った。

 

■十八時のマッカラン

 

 「いらっしゃいませ!」とマスターが練習の時と同じ大きさで言ったので、彼女もそれに負けじと大きな声で挨拶をした。開かれたドアの向こう側にはよれたチェックのシャツとベージュのチノパンを着た白髪の老人が立っていた。腰が丸まっており、背丈は彼女と同じくらいに見えた。老人はその皺の寄った顔についた小さな目でじろりと彼女を見てからのそのそと歩き、まるでそこが彼の定位置であるかのようにバーカウンターの一番左端の席に腰を下ろした。