
東京生まれの私は、縁あって昭和21(1946)年6月、秋田県庁の外郭団体「秋田県移動映写連盟」に職を得ました。
移動映写とは出張して映画を上映することです。機材一式とフィルムを担いで県内くまなく回りました。会場は小学校の講堂や地元の芝居小屋などです。これといった娯楽もない時代です。大人も子供も「映画の人が来た」と歓迎してくれました。
移動映写連盟は翌22年11月に解散となりましたが、運よく映写技士として秋田大映映画劇場に勤めることができました。大映劇場の当時の住所は秋田市亀之丁西土手町。東京の映画街・有楽町に倣って、後に有楽町と呼ばれる通りです。
私が入社したときは通り沿いの映画館は大映しかありませんでしたが、25年に秋田中央劇場が、30年には秋田松竹映画劇場と秋田日活会館ができて秋田の映画街に発展しました。そこで映画館の経営者たちが地元商店会に提案して、有楽町を通称とすることに決まったそうです。
当時、日曜や紋日(もんび)(祝日)、農作業の休みには汽車で大勢の人が映画を見に来ました。秋田駅で降りて人の流れに付いて歩けば、初めての人でも迷わず映画館にたどり着けた、なんて言われたものです。
その有楽町の映画館は昭和56年の10館をピークに1館また1館と閉館し、最後の1館(シアタープレイタウン)も先月24日で閉館してしまいました。45年余り有楽町の映画館で働いた者としては寂しい限りです。
県内には私が調べただけで182の映画館がありました。定年後、そのうち170館の跡を訪ね歩きました。「映画」ならぬ「栄華」の跡をたどる思いでした。有楽町も、その一つに加わるということですかね。
- (1)映画の跡は栄華の跡2013年1月7日
- (2)姉の背で見た初映画2013年1月8日
- (3)「文武忠孝」の末っ子2013年1月9日
- (4)「軍都」横須賀で育つ2013年1月10日
- (5)水兵さんに連れられ2013年1月11日
- (6)通学路に楽しみ多く2013年1月12日
- (7)映画館に男女別の席2013年1月13日
- (8)海軍式の教育を受け2013年1月14日
- (9)アイスは間に合わず2013年1月15日
- (10)爆撃機づくりに従事2013年1月16日
- (11)特攻機の部品も作る2013年1月17日
- (12)空襲避けて工場疎開2013年1月18日
- (13)終戦で図面を燃やす2013年1月19日
- (14)新宿で見た「そよかぜ」2013年1月20日
- (15)ひょんなことで秋田に2013年1月21日
- (16)移動映写という仕事2013年1月22日
- (17)通電記念の上映会も2013年1月23日
- (18)映画を見に山越えて2013年1月24日
- (19)酒調べに間違えられ2013年1月25日
- (20)入場料はビール瓶で2013年1月26日
- (21)荷物はサイドカーに2013年1月27日
- (22)戦死した子に代わり2013年1月28日
- (23)資格を取るも…失業2013年1月29日
- (24)「有楽町」に職を得て2013年1月30日
- (25)給料上回る大入り袋2013年1月31日
- (26)「母もの」が大当たり2013年2月1日
- (27)大館で劇場が焼けて2013年2月2日
- (28)掛け持ち、2巻落とし2013年2月3日
- (29)映画は市電に乗って2013年2月4日
- (30)今は昔 この職人技2013年2月5日
- (31)井戸水で冷風を送る2013年2月6日
- (32)これぞ裕ちゃん人気2013年2月7日
- (33)消えていく映写技士2013年2月8日
- (34)支配人も映画を作る2013年2月9日
- (35)ポルノ上映館に転向2013年2月10日
- (36)映画は大衆娯楽です2013年2月11日
- (37・完)夢とロマン見続けて2013年2月13日