
知られざる東海林太郎 没後50年:[文芸歌謡]名作が名曲を生んだ
東海林太郎は子供の頃から純文学に接してきた。学生時代に好んで読んだのが夏目漱石の作品であった。コロムビアレコード所属の霧島昇は、1942(昭和17)年に文芸歌謡「我輩は猫である」を歌っているが、東海…
キーワード「東海林太郎」にタグ付けされたニュース・話題、イベントです。
東海林太郎は子供の頃から純文学に接してきた。学生時代に好んで読んだのが夏目漱石の作品であった。コロムビアレコード所属の霧島昇は、1942(昭和17)年に文芸歌謡「我輩は猫である」を歌っているが、東海…
昭和歌謡史を振り返ってみると、長崎を題材にした作品が多く作られたことがわかる。東海林太郎も歌った。その最初は、1934(昭和9)年6月の「招く雲仙」である。翌年4月には「長崎行進曲」が発売された。作…
1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、レコード各社は戦争を題材とした戦時歌謡を発売した。東海林太郎も戦時中には、従来の日本調と戦時色とを合わせた戦時歌謡を歌うこととなる。
ポリドールレコードからは秋田県を代表する歌手が2人生まれている。秋田市出身の東海林太郎と、大館町(現大館市)出身の上原敏(うえはらびん)=本名・松本力治、1908~44年=である。
戦前戦中の日本ポリドールレコードは、日本調を主力路線として打ち出していた。東海林太郎の作品でも浄瑠璃や歌舞伎の演目を題材にするものが多く作られた。1936(昭和11)年3月に発売された「三味線やくざ…
昭和初年にはラジオやレコード産業が勃興し、映画もサイレントからトーキーへと変わるなど、新しい庶民の生活や文化が登場した。これらを総称して昭和モダニズムという。東海林太郎の作品にも、昭和モダニズムが感…
東海林太郎の舞台に欠かせない名司会者に西村小楽天がいる。活弁士西村楽天の下で学び、大正時代には東京浅草の帝国館などで活躍した。
東海林太郎と晩年まで交流のあった作曲家に細川潤一がいる。細川は1913(大正2)年、福岡県久留米市城島生まれ。旧制三潴(みづま)中学校を卒業した30(昭和5)年、作曲家を志して上京し、ハーモニカバン…
該当するイベントがありません